大学生モモの備忘録

女子大生。愛犬フレンチブルドッグ2匹が大好き!日常の幸せを描きとめていきたい

なぜバレエは「美しく」ないといけないのか

どうしてバレエは「美しく」ないといけないの?

 

f:id:cmhamo35:20191024145032j:plain

 

みなさん、こんにちは。今回は前回とは全く違う分野について書きたいと思います。

私は今、上智大学でフランス哲学のゼミの所属しています。現在主として研究しているのは「動物倫理学」ですが、昨年は今までの経験を生かして「ダンス哲学」を研究していました。その研究について紹介したいと思います。

今回は

・私がなぜこの研究をしようとおもったのか

・フランスでバレエはどのような存在だったのか

についてまず書こうと思います。

 

 

研究にきっかけ

 私は4歳からクラシックバレエを習っていました。幼い頃から踊る事が好きで、両親がクラシックバレエの教室に連れて行ってくれた事がきっかけでした。小学生の頃は、バレエを踊る事に対して「楽しい」という感情しかありませんでした。しかし、年齢を重ねていくうちに先生から踊り方を注意される事が増え、「手の形が汚い」「足先が伸びていない」などの注意を受けるたびに、どのようにすれば「美しく」踊れるのか、無意識のうちに「美しさ」を追求していました。大学生になりクラシックバレエを踊る機会が減り、今まで自分自身が踊っていたクラシックバレエについて客観的に考察してみると疑問が浮かびました。なぜクラシックバレエでは「美しさ」が重視されるのか、またその「美しさ」の基準は誰が決めたのか。クラシックバレエとは切ってもきれない関係性をもつ「美しさ」の背景にあるもの、現代まで続く「美しさ」の概念について探りたいと思い、大学三年生の時に書くゼミ論文のテーマにしました。フランスでどのようにバレエが広がったのか、またそれに共なる「美しさ」の確立の過程、絵画のなかでのバレエダンサーの美についても考えました。さらに、エドガー・ドガのバレエ 画と現代のバレエ絵画との比較から見える「美しさ」の捉え方の違いについても書きたいと思います。

 

フランスでのバレエ

 バレエの起源は中世の終わりに遡ります。バレエはイタリアで生まれ、フランスに伝わり、ロシアで発展したと言われ、王侯の宮廷は芸術の発展に対し特別な役割を担っていたため「宮廷バレエ」と言われます。想像を絶する煌びやかさをもつバレエは成功を収め、フランス各地で上演されました。アンリ4世は自らすすんで仮面劇に参加したり、王妃マリ・ド・メディシスは自分の子供達の舞踊趣味を早くから育てました。ブルボン家は、バレエに限らず様々なジャンルの舞踊に恩恵を与えていました。アンリ4世の死後も、王妃マリ・ド・メディシスはスペインとの二重の結婚政策の勝利を祝い、未来のスペイン王エリザベートに「ミネルヴァ」のバレエを踊らせました。その後ルイ14世もバレエを愛で、自らも舞台に立ったといわれています。しかしルイ14世は32歳の時に「王のディヴェルティスマン」において舞台に別れを告げました。王の引退は、王が絶頂に導いた宮廷バレエに直接の影響を及ぼし、宮廷バレエは消滅の傾向に向かう。

 その後、早変わりする装置や、機械の仕掛け、幕間の狂言などによる内容豊かな抒情的スペクタクルの時代が訪れます。女性ダンサーと男性ダンサーの均衡が確立されるようになったのもこの時代です。それに伴い、1713年に国立舞踊学校が開設されました。また、僧侶達、特にジュイット派の僧侶達は舞踊を教養の重要な1要素だと認識し、バレエに教育的役割を認めていました。彼らは、毎年ラテンの悲劇から作られたスペクタクルを上演し、その幕間でディヴェルティスマンを導入しました。このディヴェルティスマンは次第に独立し、貴族はもちろん、地方でも愛顧を受けました。この事は、バレエ趣味を国内に広げる事に大きく貢献し、バレエに魅せられた観客は派手な装いでオペラ座を訪れその美しさに感動しました。

 また18世紀中頃から演劇的動機、概念の統一、振り付けの重要性を重視する新しい傾向が現れます。バレエがほかの舞踊と区別される大きな理由は、バレエのもつ表現世だという認識が広がりました。その後、ロマン主義の名の下でロマンティック・バレエという新しい概念が生まれました。ロマンティック・バレエルイ15世やナポレオンを楽しませていた感覚の餐宴ではなく、魂の状態や時代の夢を表現しようとしていました。ゲーテの言葉によれば「想像の世界を実現するもの」。これは物的世界からの逃避ともいえます。

 しかしその後産業革命が起き、バレエの地位は大きく変わっていきます。これまで技術者や音楽家よりももてはやされたバレエダンサーのイメージが大きく変化したのです。産業革命を通し、これまでバレエを芸術として楽しんでいた貴族に代わり、資本家達が台頭するようにな。資本家達はバレエダンサーの表現する芸術性よりも、ダンサー達の身体の美しさを重視しました。そのため、バレエダンサーは下品な目で見られるようになり、下級階層の女性達がする職というイメージに変わってしまいました。この事を象徴するように、当時のダンサー達は「les petits rats」(小さなネズミ)と呼ばれていました。ダンサー達の給料はとても安く、彼女たちはパトロンに頼った生活をするしかありませんでした。このように、19世紀末にバレエは衰えましたが、セルゲイ・ディアギレフの復興活動などによりバレエ芸術は再び西欧に示されました。また様々な国際的バレエ団も創設されました。その後もパリを拠点としながらも各地で様々な作品が上演されました。このような活動により、フランスではバレエの芸術性が再認識されるようになったのです。

 

バレエにおける美しさの確立

宮廷バレエの時代には、バレエのテクニックだけでなく空間構成、音楽との調和がとれた展開をしめす図形的な舞踊が美とされました。また15世紀には、ソーテやピケのようなパの種類は増加したがそれと同時にバレエを表現的なものにする事で美を見いだそうともされました。バレエの振りは、広間の三方に設けられた桟敷に席を占める観客から見下ろされる事を考えて工夫されたため「平面的」な振りです。バッチュ、トュールなどを用いながら、単調な床の上に複雑な「図形」を描こうとしました。この図形が見ている人に立体的な美を感じさせたのだと考えます。また衣装にも観客に美しいと思わせる工夫がされています。衣装は一般的に高価な生地で作られていました。金、銀を使った生地やサテン、ビロード、モスリンなど。さらに本物の宝石や真珠で飾られていました。衣装はダンサーの体にぴったりのサイズで作られ、脚の線をはっきりと出すものでした。バレエは言葉を発する事のない芸術であるから、衣装は観客がダンサーを認識する助けとなるものというのが大前提でした。衣装を煌びやかにするためではなく、ダンサーの美しさを引き立たせるための衣装であり、その衣装とダンサーとの調和が美とされたのです。

 その後、宮廷バレエが衰退するとシャルル・ルイ・ボーシャンによって基本の5つのポジションが定められました。そして、バレエの美学はエレヴァシヨンと努力を魅せまいとする配慮、なによりもアン・ドュオールの上に築かれました。またかつての上から見下ろされるように見られていたバレエは、正面から見られるようになりました。これにより、ソリストは観客に対して平行、垂直に動く事が美しいとされるようになったのです。この頃、踊りの線、優美さ、造形的調和を重視しすぎて、芸術的表現がおきざりにされることもありました。

 ロマンティック・バレエにおいては、バレエのテクニックよりも人間の心情や時代の夢を表現する方に美を見出しました。また女性ダンサーがポワントで立つ事を習得しました。これは、物的世界から逃避し、人間離れした存在を美としたからではないかとされています。ロマン主義の特徴でもある夢想的な神秘主義、死よりも強い神秘的な愛を美しいとした作品が多く見られることからも言えます。

 産業革命期は、ダンサーの踊りやバレエの芸術的表現よりも、ダンサー自身の身体の美しさが重視されました。その後、芸術としてのバレエが復興するに伴って、パ、音、色彩、形態、振り、音楽、衣装、装置の全ての調和、そして綿密に整えられた規律のなかに美しさが見出されました。バレエの美は3世紀にもわたって探求されました。私は、厳しい型に基づきながらも現実と幻想の間にある伝統と可能性がバレエの美と言えると思います。

 

 

少し長くなってしまいましたが、今まで当たり前のように「美しい」と思っていたバレエにはこんな背景があった事を分かってもらえたら嬉しいです。

 

次回は、絵画の中から分かるバレエの美しさについて紹介したいと思います。

 

では

また

 

momo